『いい人・悪い人』で分けてしまうあなたへ。仏教から学ぶ私が思う中道の精神
「いい人だと思ったのにね」
日常生活でよく使う言葉でもあり、よく耳にする言葉のような気がします。
「いい人」というカテゴリーは、分類しやすく、分かりやすい。
それと同じぐらい「悪い人」も、分類しやすく、分かりやすいカテゴリーだと思います。
私たちは、人や物事を「いい・悪い」「好き・嫌い」「正しい・間違っている」のように、二つに分けて捉えることがよくあります。
二つに分けることで、人や物事が分かりやすくなり、分類しやすくなります。
けれど、そんなに簡単に分類できるものでしょうか。
「いい人だと思ったのにね」という言葉は、もしかすると、私たちはその人の一部分を見て、「いい人」というカテゴリーに入れていたのかもしれません。
反対に、「嫌な人」「悪い人」と思ったときも、その人の一部分だけを見て、そう判断しているのかもしれません。
人は、「いい人」「悪い人」の二つだけでは、はかれない。
そして、自分だって、そんな単純なものさしで判断されたくもない。
でも、だからといって「どちらも同じ」「真ん中を取りましょう」という話でもありません。
仏教には、物事を二つに分けて捉える見方から離れ、「中道」(ちゅうどう)を大切にする考え方があります。
今回は、この「中道」という考え方を入り口に、個性學(こせいがく)の視点から、人間関係について考えてみたいと思います。
「いい人・悪い人」で人を見てしまう私たち

仙人ではない私たちは、つい人や物事を「いい」「悪い」で判断してしまいます。
「あの人はいい人」
「あの人はちょっと嫌な人」
「これは正しい」
「これは間違っている」
そんなふうに、目の前の出来事を二つの枠に分けて捉えることは、決して珍しいことではありません。
選択肢が少ないほうが迷わず、判断も簡単だからです。
でも、「いい・悪い」「正しい・間違っている」という単純なものさしだけで、人や物事を本当に捉えられるのでしょうか。
選択肢が少ないほうが私たちは迷わない
選択肢が多いほど、私たちは迷います。
メニューがずらりと並べば悩むし、旅行や買い物、人間関係まで、日常は選択の連続です。
毎回「どれにしよう?」と悩み続けるのは正直しんどい。
だからこそ、
「これか、これではないか」
「好きか、嫌いか」
「いいか、悪いか」
と、選択肢をシンプルにしたくなる。
二つに分けることは、迷わないための便利な方法でもあります。
単純なものさしで人を測るのは効率化になる?
医療ドラマで、緊急度を色で分類する場面がありました。
試験会場でも、受験番号や座席を分かりやすく分類することで迷わず目的地にたどり着けます。
分類には「迷わないための目印」という役割があります。
タイパやコスパが重視される今の時代、効率よく分類することはとても便利です。
では、この便利さを人間関係にも当てはめたらどうでしょう。
「あの人はいい人」
「あの人は嫌な人」
「この人とは合う」
「この人とは合わない」
確かに迷わなくなるかもしれません。
でも、人は試験会場の座席のように、最初から決められた場所に当てはめられるほど単純ではありません。
どこから見るか、何を見るか、どう見るかで、その人の姿は変わります。
もちろん自分だって同じです。
自分もまた、単純なものさしひとつで判断されたくはありません。
私たちはみんなメガネを持っている
私たちはみんな、見えないメガネをかけて物事を見ています。
これまでの経験、育った環境、価値観、知識──
それらがメガネのレンズになっています。
だから同じ人を見ても、
「優しい人」と感じる人もいれば、
「優柔不断」と感じる人もいる。
「自由な人」と感じる人もいれば、
「自分勝手」と感じる人もいる。
見ている人が違えば、同じ人でも違う姿が見える。
それは良い悪いではなく、ただの“見え方の違い”です。
その見え方だけで、その人を判断することはできません。
自分のメガネに気づくことで、人を知る可能性は広がっていくのだと思います。
個性學は観点を増やすツール

自分のメガネで物事や人を見ていると気づくことで、人を知る可能性が広がります。
でも、可能性が広がるだけで、何かがすぐ解決するなんて、そんな美味しい話はありません。
気づいたからといって、そのメガネを捨てればいいわけでも、新しいメガネにかけ替えたらいいわけでもない。
これは、木を育てるのと同じ。
月日と栄養が必要なのです。
「分かる」ことと「できる」ことは違う
個性學(こせいがく)を知った人(私も含む)がよく言う言葉があります。
それは、
「分かっている、でも許せない」
自分と相手が違う個性だと頭では分かっている。
でも、実際、向こうが無意識にぶつけてくる行動に腹が立つ…。
やっぱり理解できない。
違いを分かっていても、私たちは仙人ではありません…。
腹も立ちますし、納得できないもの。
「分かる」と「できる」は、次元が違うものです。
昨日、勉強したからってそれが頭に残っていないと同じ。
繰り返し問題を考え、解き続け、練習しつづけないと習得できないのです。
木を育てるで例えるなら、私はこれを栄養だと考えています。
それでも知るを止めない
二元論が楽な理由のひとつは、判断する情報が少なくてもいいことだと私は思います。
表面上から見える雰囲気、人から聞いた話。
1回起こったこと、1回言われたこと。
それだけで、「いい」「悪い」の判断ができます。
考えていないわけではない。
でも、考えるのは少しめんどくさい。
だから、分かりやすい形がいい。
「いい人」「悪い人」で判断するのは、今の時代にはある意味とても便利な方法かもしれません。
でも、分からないから知ろうとする。
自分なりに調べる。
そして、なんとなく分かってくる。
そしたら、ペラペラの紙だったものに奥行きが出てきて、それが立体になり人間になる。
もしかしたら、「知る」ってそういうものなのかもしれません。
知るを積み重ねていくからこそ、その人がみえてくる。
みえたからこそ、分かるものもあるのかもしれません。
土台を整えながら個を育てる
今はとても便利な時代です。
たいていのことは、SNSで情報を得ることができます。
なので、自分を知ることも、相手を知ることも検索すればだいたいのことが分かります。
「分かること」と「出来ること」が違うように、「知ること」と「腑に落ちる」ことも違います。
知ったことを、自分の中に落とし込むには、「認めること」と「受け止めること」が必要です。
言葉にすると簡単ですが、これは、時間もかかるだけではなく、土台を整えながら、自分と向き合いながら、自分の持っている個性を育てることになります。
二元論を繰り返しながら、立ち止まり、本当にそうか自問する。
この繰り返しをしていくと、自分の中の選択肢が増え、自分で好きなメガネを選ぶことができるようになるのです。
だから中道の精神で物事がみれるようになる
個性學(こせいがく)は、生年月日からその人の特性や考え方、大切にしている価値観などが分かる学問です。
個性學の概念は、
・個性に優劣はない
・個性に善悪はない
・個性には役割がある
です。
これは、「人をいい・悪い、優れている・劣っているといった二つのものさしだけで見ない」という、ここまで書いてきた話にもつながります。
そして私は、これが「中道の精神」にもつながっているのではないかと思っています。
中道は、真ん中を取ることではありません。
「どちらも同じ」と考えることでもなければ、無理にちょうどいいところを探すことでもない。
自分の持っている個性。
家族が持っている個性。
周りの人が持っている個性。
そこに、いいも悪いもない。
優劣もなければ、「生きやすい」「生きづらい」と決めつける必要もありません。
行動だって同じです。
うまくいくこともあれば、うまくいかないこともある。
自分では正しいと思ってした行動が、他の人からは正しくないと言われることだってあります。
そんなときは、思い出してください。
二元論で判断するメガネを今かけていることを。
「私は今、どんなメガネをかけて、なにを見ているんだろう?」
そうやって、自分のメガネに問いかけてみる。
そして、二元論で判断するメガネを、いったん外してみてもいい。
判断しないメガネをかけてもいい。
いったん横に置いておく、という選択もある。
そして、必要なら、もう一度そのメガネを手に取ったっていい。
一度外したら、どんなメガネを選んでもいいのです。
正直、1つのメガネだけで物事をみるのはもったいないと思います。
自分のメガネに気づき、選べるメガネが増えていく。
それによって、あなた自身の選択肢も増えていく。
それが、私にとっての「中道」です。
今日のブログが、いつものメガネに少し気づくきっかけになったら嬉しいです。

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